大正2年(1913)   0歳:12月11日、山口県大島郡大島町小松に生まれる。祖父が船主にして大船頭だったためか、生涯、海を好んだ。  
  大正15年(1926)   12歳:母フミ死去(33歳)。山口県立岩国中学校に入学、病弱の少年で文学書に親しむ。  
  昭和7年(1932)   18歳:旧制松山高等学校文科甲類入学。軍事教練に反発して、退学一歩手前となる。  
  昭和10〜12年(1935〜37)   21〜23歳:京都帝国大学文学部史学科に入学。同級生に林屋辰三郎、石田一良、小野義彦、藤岡謙二郎、岡本良一など。長谷部文雄の「資本論研究会」に参加。梯明秀らと「ボルケナウ研究会」、清水三男らと「歴史学研究会」を組織。主任教授西田直二郎の「文化史」に触発され思想史にひかれる。  
  昭和13年(1938)   24歳:卒業論文提出。国史専攻卒業後、兵庫県立豊岡中学校に赴任。徴兵検査で第二乙、陸軍輜重兵第一補充兵となる。  
  昭和14年(1939)   25歳:京都市史編纂事業にたずさわる。編纂主任西田直二郎。召集されたが、既往症のため即日除隊帰郷。  
  昭和15年(1940)   26歳:安河内泰夫妻の媒酌で、渡辺毅夫の三女千枝と結婚する。  
  昭和16年(1941)   27歳:長男英佑誕生。精力的な執筆活動始まる。  
  昭和18年(1943)   28歳:長女待子誕生。  
  昭和20年(1945)   31歳:一家あげて郷里大島に疎開する。敗戦直後、腸チフスを病み、生死の間を彷徨する。  
  昭和21年(1946)   32歳:京都へ戻る。次女まゆみ誕生。立命館大学専任講師となる。  
  昭和22年(1947)   33歳:文学部助教授となる。旺盛な執筆活動開始。  
  昭和23年(1948)   34歳:文学部教授となる。駐日カナダ大使E・Hノーマンと交流、服部之総、三枝博音、丸山真男、平野義太郎、野原四郎らと「安藤昌益研究会」をもつ。  
  昭和24年(1949)   35歳:「平和問題談話会」に参加し、末川博、桑原武夫、松田道雄、田畑茂二郎らと日本の進路について論究する。  
  昭和25〜32年(1950〜57)   36〜43歳:サンフランシスコ講和条約をめぐり、全面講和を主張して西日本各地で講演。新村猛のあとを受けて部落問題研究所長になる。講演、ラジオなどの出演が増える。  
  昭和33年(1958)   44歳:中国科学院の招待で訪中。バセドウ氏病になる。  
  昭和34年(1959)   45歳:立命館大学文学部長になる。大津市史の編纂に着手。  
  昭和35年(1960)   46歳:京都市史編纂委員となる。  
  昭和42年(1967)   53歳:アメリカ合衆国国務省の招待で渡米。  
  昭和43年(1968)   54歳:部落問題研究所の業績を認められ「朝日賞」受賞、直後に研究所長を辞任。琵琶湖博計画委員長就任。  
  昭和44年(1969)   55歳:学園紛争が激化、辞職して問題提起する。  
  昭和45年(1970)   56歳:「卒業はない大学」の塾長をつとめる。文筆一路に徹する。  
  昭和46年(1971)   57歳:邸内に「奈良本歴史研究室」を創設する。執筆活動に加え講演、テレビ出演などで超多忙。会田雄二、陳舜臣らとともに季刊誌『歴史と文学』を創刊する。  
  昭和52年(1977)   63歳:平沢興のあとをうけ、京都イングリッシュ・センター学院長となる。病に伏し、淡路島の山荘で療養。「松本治一郎賞」を受賞する。  
  昭和56年(1981)   67歳:朝田教育財団理事に就任。信州農村開発史研究所長に推される。再度、脳内虚血で倒れる。  
  昭和58年(1983)   69歳:「京都新聞文化賞」を受賞。「研究室」を閉じる。  
  昭和60年(1985)   71歳:学校法人瓜生山学園理事に就任。  
  平成7年(1995)   81歳:「京都府文化賞特別功労賞」を受賞。  
  平成13年(2001)   87歳:三月二十二日永眠。  
 
2002年3月22日 
学校法人 瓜生山学園
京都造形芸術大学
 
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